昭和48年08月19日 夜の御理解



 今の幹三郎の話を聞かせて頂いておりますと、もうあの、信心の全てという感じがしますね。人間の一番尊い姿は、自分と言うものが、( 少し途切れている )ね、申しました、同時にあの、自分を知るという事。あの、今、どこを聞かせて頂いても、あの、そうだな、そうだなという風に思わせて頂くのですけれども、その様に精進させていただいておっても、例えば私今日四時の御祈念をさせて頂いて、下がらせていただいてから、お風呂に入ったんですが。
 あの本当に振り返ってみると、あそこも相すまん事、ここも相すまん事ばっかりなんですけれども。本当にあの脱皮しようとして脱皮も出来ない。自分をぎりぎり分かれば分かるほど、自分の惨めさを感ずると言った様な中にあって、ほんならお風呂に浸からせて頂きながら、じっとその事を思わせて頂いて、あのだからこそ、金光大神のお徳におすがりしなければ出来ないのだと、ね。だからこそ足りない所は足して、使うて頂かなければならない。使うて頂きたいという願いだけは。
 いっぱいに持っておるのであるから、自分のような者では、その神様がお使い難かろうと。けれども使うて頂きたい。そこで見直し聞き直し、足りない所は足して下さって、おかげを頂かせて下さるのが金光大神だと思うたら、途端にお風呂の中で、それこそ極楽を感じさせて頂くんですけれどもね。あの今幹三郎が申しました様な所がありませんと、信心の何と言うですかね、しっとりとした有難さと言った様なものから外れて行く様ですね。本当に私どもは現在の私共から、脱皮して行く事の精進。
 それに先ず自分自身を分からなければならない。そして私なりに一生懸命精進しておるけれども、努めておるけれどもと言っておりましたが、その努めておるけれども、実際は一つも出来ない。神様からご覧になったら、歯がゆい思いをさせるだろうと思う。こらもう自分はつまらんのかも知れんとさえ思う様な事がある。けれどもやはり、御用に使うて頂きたい。ね。だからどうぞ神様、足して使うて下さい。そういう願いはこら金光大神より他には願われない感じがする。
 そういう願いこそお取次ぎを頂かせて貰うてね。足りない所は足して使うて欠けておる所は、金光大神のご信心によって、満たして下さって、まぁおかげを頂かせて下さいと言う様な、そこに私共の救いと言うか、人間の助かりがね、こう何かひしひし感じられる。そんな感じを致しました。そして今の幹三郎の話を聞かせて頂いて、本当に成程そうだなと、愈々思うのですね。
   どうぞ。